鹿児島県日置市東市来町美山の歴史・特長
約400年前、豊臣秀吉の時代、朝鮮出兵により、
薩摩藩に連れてこられた人たちがいた。
その人たちは、当時の日本人が持たない、とてつもない「技術力」を持っていた。
その技術力が当時の薩摩藩に大きな財政収入と
世界的なネームバリューを与える事になる。
そこから、美山のものづくりの歴史が始まる
美山の歴史①朝鮮出兵(別名焼き物戦争)
朝鮮半島は当時世界でもトップレベルの陶磁器生産技術を持っており、薩摩藩に足りない陶工・樟脳製造などの技術者を連れ帰り、藩の為に陶器製造などをさせた。
市来島平に着き5年・神之川に1年、その後(苗代川)現美山に腰を据える事になる。
それが薩摩焼の始まり。
千利休(お茶・器の良さを広める)
豊臣秀吉(お茶・焼き物大好き)
島津義弘(当時の薩摩は土器使用)
わが藩には器を作れる技術がない( ;∀;)
⇒
お茶における
器の大事さ
を教える
⇒
この器は
城一城の価値
と言うぐらい
器に惚れる
美山の歴史②(技術力で薩摩藩を支える)
※豊臣秀吉の指示による朝鮮出兵に参加した各藩(山口県から鹿児島県の九州の藩が中心)のほとんどは当時日常的に土器を使用しており、日本の中でも陶器製造においてかなり遅れた地域であった為、どうしても陶磁器製造技術者が欲しかった。陶磁器制作の技術者を多数抱えていた朝鮮半島、戦争に合わせてその技術者たちを各藩が競うように連れ帰り、各藩で陶磁器制作をさせた。※有田焼・波佐見焼・上野焼・萩焼・薩摩焼などはすべて朝鮮からの技術者により各藩の主力産業となってゆく。
苗代川に居を構えた朝鮮陶工らは薩摩藩の財政を支える為、陶器製造はもちろんの事、樟脳製造(専売)・通訳・土木(井戸掘り)など、様々な技術で、ここ苗代川で、薩摩藩の為に必死に生きていた。
江戸時代には、富山の薬売りを使い、「薩摩土瓶」を日本全国に流通させ、一世風靡する。
鹿児島県の県木が「クス」である理由は、樟脳(クスからできる防虫剤セルロイド)を専売制を敷き、国内外に販売して多額の利益を得ていたため。美山が創業発祥の地
世界遺産となった磯の反射炉の成功は、苗代川陶工たちによる、耐熱煉瓦を作る技術があったからと言われている。
美山で作られる薩摩焼(白薩摩)
言わずと知れた、薩摩焼のろくろ・絵付け・捻り物・透かし彫りの技術力を存分に生かした献上品
美山で作られる薩摩焼(黒薩摩)
苗代川では庶民が使用する、土瓶やハンズ(水がめ)や、すり鉢を主に制作
戦時中は陶器製の手りゅう弾も制作していたとか
現在を代表するのは焼酎を燗で飲むための黒ぢょかが有名
世界に羽ばたく薩摩焼
明治に入ると、オーストリアウィーン万博・シカゴ・コロンブス万博・パリ万博・ハノイ東洋諸国博覧会・セントルイス万博へ出品・数々の賞を獲得し、薩摩焼の名を世界中に知らしめる事となる。
日本陶器の代名詞を「サツマ」と呼び絶賛される。その後日本各地で薩摩焼の粗悪品が出回り、本家薩摩焼も衰退してゆく。悲しい現実もある。
明治から昭和へ 産業としての陶器製造
明治に入り、藩の後ろ盾がなくなり、陶器製造による収入を得る方法を失う美山。
仕事として、今までは「作る」事に集中できる環境があったが、
作ったものを「売る」という事も同時に行う必要が出てきた。
そしてそれで生計を立てる事を行わなくてはならなくなった。
その為、当時の苗代川(現美山)では陶磁器製造の仕事から、他の仕事へ移る住民も
数多く出る事になる。
その多くの職業は「学校の先生(教育者)や警察官・官僚」などの仕事についている。
※当時の苗代川では、子供たちへの教育を町ぐるみで熱心に行っており、
秀才と呼ばれる子供たちが育っている。※この時代に東郷茂徳(元外相)も誕生している
産業としての昭和の美山の写真 ※下記の写真はすべて鹿児島国際大学様より提供の写真です
①ろくろ成型前の土(粘土)を作っている場面
作業をしている人達は苗代川近辺の他の地域で農業をしている方々。
農業の繁忙期以外は苗代川に来て現代で言う「アルバイト」を行っていた。
まさに、美山地域以外の方も仕事として出入りし、「陶器産業」が盛んに行われていた。
他にも馬車やリアカーで粘土を運ぶ・出来上がった作品を運ぶ「運び屋」さんもいた。
②ろくろ成形の場面
写真は「たたき」と言われる大型の作品を作るときに用いられる技法。
主にツボやハンズと呼ばれる水がめを制作していた。朝鮮ではキムチ壺はこの技法で制作されている
また、苗代川では会社に雇われて制作する職人と個人やフリーでその時にある仕事を受ける職人の
2種類の職人がいたと言われている。
③白薩摩作品に絵付け作業をしている場面
女性が職人として活躍しています。
④型を使い成形した作品の「バリ」と呼ばれるはみ出した粘土を削る作業
多くの女性が活躍。皆さん真剣そのものです。
こちらは白薩摩作品
こちらもバリとりの作業風景
黒薩摩の作品
⑤素焼きした作品に釉薬をかけている場面
写真では黒じょかに釉薬をかけていますね。
こちらも釉薬をかけています。
⑥何をしている所か?不明ですが、このような風景が当たり前のようにこの町にある。
道にはハンズ(水がめ)やすり鉢がころがり、職人が陶器の出来を見ている。
納品前の箱詰めでしょうか?
⑦昔の登り窯。
ここで多くの作品が焼かれ、多くの人のもとにわたった。
過去には電気も温度計もなく、約1250度の温度で焼くことが出来る陶器作品を
火の色や体感温度を元に完璧に焼き上げていた。
窯を焚くだけの専門の職人もいたと言われている。
⑧絵付け専用の窯
絵付けと素焼き・本焼きは窯を焚く温度が違うので、窯の形状も違う。
何度も何度も経験し、何度も何度も失敗し、一流の職人へと育ってゆく。
その仕組みや教育はこの地で代々受け継がれていた。
⑨多くの職人技術と多くの道具や知識、そして土地の人たちの想いで
下記のような素晴らしい作品が次々とこの地から生まれていった。